日本人の誤解①(「家族主義」と「個人主義」と )

 こういうように、様々な外国の文化を無理して訳していきました。その時に、日本人は一つ大きな誤解をしてしまいました。欧米の文明ということで、機関車などを見て、当時の日本人はとても驚きます。その頃の日本の交通機関といえば、馬か歩くぐらいでしたから、機関車を見て、その便利さに圧倒されました。欧米の人々は、鉄製品で色々な物を作っていました。こういう〈文明〉に触れて、日本人は大変驚いたわけです。 

 その際に、日本人は、そういう機械など物的に優れた物を作れる欧米人は、その背後に立派な精神文明があるのだと思いました。これは、正しいです。そういう精神文明があるからこそ、物的な物も作れますから、これは間違っていません。では、その精神文明とは何かと、日本人が手探りで調べていきました。それでわかったものは、どうやら欧米人は「個人主義」という考え方らしいということです。個人の地位を大事にし、個人の能力を重んじることで、こういう機関車などの優れた機械を生み出したと考えました。すると、そういう文明の元である個人主義というものをもっと学ばねばならないと、当時の日本人は思いました。振り返ってみると、日本人の考え方は一族主義ともいいますが、「家族主義」でした。
 
 いつの時代も、新しい考え方を学ぶときに、勘違いする者がおり、そういう者は自分達の今持っているもの全てを否定しようとします。そのせいで「家族主義」を否定し、「個人主義」で行くべきだという極端な風潮が当時の日本人の考え方に蔓延してしまったのです。個人主義的な社会こそ理想の社会で、そこから様々な新しいものが生れてくると思ってしまったわけです。そこで、個人主義へ、個人主義へという風潮になっていきました。これが誤解の一つです。 

 そして、誤解はもう一つありました。当時の日本人は、条約とは何かを知りませんでした。条約が国を縛ってしまうということなど、知らなかったわけです。外国に結べと迫られて結ぶわけですが、何もわからずに結びました。そうすると、皆さんご承知の通り、明治になってから、その条約の欠陥に気付くわけです。何かといいますと、いくつかありますが、特に二つが重要です。 
一つ目は、治外法権を認めるということです。現在は、外交官の住んでいる大使館で起こった犯罪は、大使館のある国は介入することはできますが、あえて手を出さず、滞在している外交官の母国に任せるという処置をとっています。例えば、日本にあるアメリカ大使館で殺人事件が起きれば、日本の警察手出しはできますが、手出しせず、アメリカに処置を任せます。その時は日本駐在のアメリカ大使がアメリカの法律で裁きます。こういう形になっています。 

 ところが、当時の江戸時代の人々はそういうことを知らなかったため、日本における外国人のすべてに治外法権が認められてしまいました。日本の法律で、外国人を一切裁けなかったわけです。例えば、外国人が横浜の街で、物を買わずに盗んで逃げたとします。これは、万引きですから、今の日本だと警察は外国人だろうと捕まえます。しかし、治外法権を認めてしまったため、当時は、捕まえても日本の法律で裁くことができませんでした。そこで、日本国内では、外国人を日本の法律で裁くことができるように条約を改めないといけませんでした。これは重要なことです。

 もう一つは、関税自主権です。当時の日本人は、それがどういうものか知らなかったままに、条約を結んでしまいます。すると、イギリス人がインド人を扱き使って、日本に安い綿布を沢山持ってきて売りにきました。日本でも綿布を作っていましたが、日本人はいつでも手の込んだ物を丁寧に手間暇かけて作りますよね。そういう風に一生懸命に作った綿布とイギリスの安くて粗い綿布との値段が合わないわけです。安さと量とに太刀打ちができないわけです。そうすると、日本の綿布を作っている業者たちは、売れなくなり大変になっていきました。人間は安い方を買ってしまいますからね。

 今なら、百均の店があります。私も楽しんでいます。しかし、皆さんに言っておきます。机などに置いておくものは、百均でもいいですが、実用的な物はダメですね。私の経験から言いますと、スリッパなど買うと、すぐダメになりますから(笑)。何が言いたいかといいますと、イギリスの綿布は安物だったのです。当時の百均みたいなもので、安いから買う人が沢山いました。当時の日本の綿布の業者は、軒並み経営が厳しくなりました。そういう場合、どう対処するかといいますと、日本の綿布の値段と外国の綿布の値段が合うように、日本は外国からの輸入品に対して、関税をかけるわけです。しかし、日本は条約のせいで、関税自主権をとれず、自国の産業を守れませんでした。そこで、関税自主権をぜひ持たねばならぬとわかり、明治に条約改正をするために必死に働きかけました。しかし、当時の欧米列強諸国は条約改正することに対して拒絶しました。欧米列強が断る理由ははっきりしており、日本人が外国人を逮捕した場合、それをしっかりと裁く法律があるのかということでした。民法、刑法、商法があるのか、というわけです。
 
 しかし、これらの法律を日本は持っておりませんでした。この三つは重要です。この三つをしっかりと作ってから出直してこいと言われたわけです。そこで、明治政府は、刑法、民法、商法を作りました。刑法はすぐにできました。殺人や泥棒や放火は世界共通です。明治四年にはでき上がりました。商法は契約で難しい所もありましたが、何とか折り合いをつけて作れました。ところが、民法はすぐにはできませんでした。日本人は家族主義できていましたから、個人主義的な考え方はなく、親族、家族の相続の部分で行き詰ってしまいました。欧米列強からは、近代的な個人主義的な民法でないと承知しないと言われました。すなわち個人主義的な色彩を付ける必要があり、明治の人々は悩みに悩み、大激論をかわしながら、明治三十三年にようやく民法ができ上がりました。三十年かかったわけです。
 
 さらに、日本が明治三十七~八年に、日露戦争において、勝ったことも条約改正に大きな力となったと思います。もし、日露戦争で負けていたとすれば、完全な条約改正はなされていなかったと思います。だから、日露戦争というのは大変な戦争でしたが、日本の国運をかけて、日本の独立を示す効果がありました。

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