日本人の誤解②(「家族主義」と「個人主義」と )

 個人主義と家族主義とでは、考え方が全然違います。まず家族主義とは何かといいますと、一族にはご本家さんがありました。皆さんも姓がありますが、その中でもご本家さんがあるはずです。そのご本家さんが一族の様々なことを決めていました。江戸時代までは、そのような形で日本は成り立っていました。日本だけでなく、一族主義の中国や韓国もそうでした。ところが、その家族主義では、近代的な民法にはならなかったわけです。民法でいう権利や義務が、一族のご本家さんのみになってしまうわけです。

 例えば、Aさんがアパートに入ります。しかし、アパートにAさんの名前だけでは入居できず、保証人として、Aさんのご本家さんの名前が必要になってきます。全部の契約をこういうようにはできないので、現実では成り立ちません。そこで困った日本は、ものすごく激しい議論をして、やっと折衷案を作ったのです。このことを皆さんは、よく理解しておいてください。私が強く主張していますが、なかなかこの部分が理解されません。 

 苦労して出した折衷案は、世帯(三世代を表す)に目を付けたことでした。この世帯のことを戸と呼びました。この戸は、昔から使われています。税金なども戸で求めていました。戸の中心にあたる人をご本家さんのようにして、戸主と名付けました。ここから、戸主権などが出てきました。要するに、ご本家さんの小型版です。これをなんとか日本は折衷案として作りました。戦後の人々は、この案を非民主的だとボロクソに批判し、民法を改正し、戸主権はなくなりました。しかし、それは後から作った屁理屈です。形の上では民法ですが、それまでの歴史があったわけです。例えば、福島県です。東北地方は農業が中心です。農業では、人の力が一番大事でした。子供が生まれると、一番上の子が労働力として、一番役に立ちます。そこで、福島県では、最初の子が、その家の権利を受け継ぐようになっていきました。男性でも女性でもです。福島県では、姉家督といって最初に女性が生まれたら姉が家督を継いでいきました。そういう実態がありました。そういう実態を背景に民法を定めたのに、戦後に批判している人々は、そのことを何も知らないわけです。そのせいで、戦後は戸主というものはなくなってしまいました。今はどうなっているかといいますと、三世代同居の必要がなくなって、ばらばらになっていきました。今は一世代で住む人ばかりです。 

 こういう話があります。全国の小学校で学力テストが実施されていますが、その一位は秋田県でした。今は色々な県がなっていますが、上位陣にいる県は、秋田県、新潟県、富山県、福井県、石川県です。なぜかと調査した結果、地方県としては日本海側で、それらの県の特色は、三世代同居が圧倒的に多かったことでした。これは事実です。三世代同居は教育にとてもいいということです。三世代同居での子どもは、色々な世代がいることで、人間集団にはルールがあるのだということを小さな子供のときから感覚で身につけています。つまり、それぞれの生き方や、ルールがあることを生活環境の中で自然に学べるというわけです。そうすると、一般社会に入るときに、社会にはルールというものがあるということを、すでに自然にわかって入るわけです。そうした〈大人〉の感覚がなんらかの形で学力などに表れているのでしょう。明治では、個人主義は優れたものだという勘違いをしてしまったのです。明治に私がいれば、あれは狩猟民族の主張だと言いますが、残念ながらその時代に私はいませんでした(笑)。明治時代の欧米への留学生は、皆、大真面目に留学して、個人主義が素晴らしいなどと言ってしまったために、日本人は個人主義が一番理想だという勘違いが起きてしまい、その間に戸主権が出来たわけです。その後、日本は敗戦し、民法を改正し、戸主権も無くしてしまい、徹底的に個人主義にされてしまったわけです。我が国の憲法は、完全に個人主義です。 

 例えば、憲法二十四条です。婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、とあり、他の家族のことは一切書かれていないのです。両性の合意のみになってしまったわけです。親子は関係ないのです。

 しかし、日本人の長い歴史にある家族主義という考え方はそう簡単に消えるものではありません。理屈ではなく、感覚として残っています。その良い例として、オリンピックの日本の選手がメダルを取った時のインタビューがあります。このインタビューで、どの選手も同じようなことを言います。それは、皆様の温かい応援のお陰ですという言葉です。欧米系の人は、個人主義なのでメダルを取れば俺の力だと誇示します。日本は、違います。皆さんのお陰でと必ず言いますよね。日本人は個人主義を主張しながら、しっかりと家族主義が感覚として根付いているのです。
 
 結論として、私は日本人の中には、家族主義という考え方が、今もしっかりと生きているということを話したかったのです。

(第二部の対談へ続く)

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